「吟醸酒への招待」 篠田次郎 (1997) 中公新書

吟醸酒への招待―百年に一つの酒質を求めて (中公新書)
そればかりではない、多くの器具は紙や布で覆い縄掛けまでするのだ。半年たったらまたやってきて、包装を解き位置に据え、たんねんに清掃、洗浄する。だから蔵を去るとき、それほどていねいに取り片付けなくともいいだろうと私は思うのだ。これは彼らの清潔感がやらせているのではない。蔵を去るとき、それは何十年続いていても一つの区切りなのだ。主人から改めて要請があって、また酒づくり一年生としてやって来ようという覚悟なのである。はたから見れば来年度も彼が杜氏として蔵にくることは間違いないのに。つまり、彼は杜氏という職業人として潔いのである。蔵を去るときは、次に誰が杜氏としてやってきても気持ちよく仕事にかかれるようにという思いやりなのだ。(第5章 吟醸酒の今日と明日 p-176)

酒の師匠から紹介されたもの。いまや確かめようのない過去の日本酒の味の変遷を分析値や証言から想像し、その中で、売るためでなく杜氏の技の証として作られていた吟醸酒が、飲み手によって表舞台に出てきた様子が明らかにされる。著者はそうやって吟醸酒を最初に世間に紹介した飲み手の一人。酒蔵などの設計が本業で文章の構成は緩いが、太平洋戦争を挟んで現在までの日本酒の現代史というのは興味深い。他にも、時代の酒の味を決めるのは造り手か飲み手か、すべての蔵が「吟醸の心」を持っているのか、など、考えさせる。(2012年3月7日 読了)