「海辺のカフカ」 村上春樹 (2005 単行本は2002) 新潮文庫

海辺のカフカ (上) (新潮文庫)海辺のカフカ (下) (新潮文庫)
「でも僕にはまだ生きるということの意味が分からないんだ」と僕は言う。/「絵を眺めるんだ」と彼は言う。「風の音を聞くんだ」/僕はうなずく。/「君にはそれができる」/僕はうなずく。(第49章 p-528)


村上春樹はなにがいい?と訊いたら「海辺のカフカ」を薦められた。「その年ごろに読むといいんですけどねぇ」と言いながら。
その年ごろの私は、断続的に大学の学生懇話室と呼ばれる場所に通っていた。受験勉強を終え、自分はいかに生きるべきなのか、この違和感は何か、と、「生きるということの意味」を問うていた。田村カフカは家出するが、20歳前後の頭でっかちの若者は、正面切って考えることしか、なす術を知らなかった。
私の担当はA先生という方で、私は一週間考えてきたことを話し、先生はそれをじっと聞いてコメントをくださった。そうやって、私は大学生として「キャンパスライフ」を満喫するべき時期を、言葉で自分を切り刻むことに費やしてしまう。行き着いた先は、メスを握っているのが自分である以上、それを持っている手、自分の意志までをも完全に切り裂くことは、どうやってもできないのだという納得、であった。それはいま思えば、私なりに「森に分け入る」ことであったのだろう。
小説の中で主人公はエディプスの神話をなぞりながら、村上春樹の造形する魅力的な大人たちとの交わりを通じ、あるいは自分に深く沈潜しながら、生き方を掴んでいく。いっぽう、ひとりきりの私は、それからまたずいぶんと遠回りしていくことになる。小説のテーマや意図がどうかは知らないが、ここにひとつのロールモデルを見ることが出来るだろう。そうやって倣うことのできる人や本を探せば良かったのだと、いまでは思える。そして、それには大人が道を示してやらねばならない。
結局、生きるということの意味は分からない。しかし、それはちゃんと手入れをしてやらなければ、無意味になってしまう。あれから20年経って分かるのは、そのようなことである。(学内誌エッセイ原稿から)(2011年7月17日読了)