「だから人は本を読む」 福原義春 (2009) 東洋経済新報社

だから人は本を読む
要は、今いる私たちがどのように生き、どのように死んでいくのかということ。そしてそのために、本を書いた著者と向き合って、あなたがどのように生きて、どのように亡くなったのか、そして、あなたが人生でいちばん愛したものというのはどんな価値であったのか、なんであったのかを著者と対話するということ。それが、古典を読むことの意味になってくると思う。(第二章 読書と教養 p-49)
それは著者である「あなた」だけでなく、読者である「わたし」が、どのように生き、どのように死んでいくのか、そして、わたしがこの人生でいちばん愛したものはどんな価値であったのか、なんであったのかを著者に問う、ことでもあるだろう。若い世代は本以外にもたくさんのテキストを目にするのだから、大学生に「本を読め」というのは教養主義の残渣に過ぎないと数年前まで思っていたけれども、実際に彼らと接するとそのあまりの国語力のなさに震撼させられる。「本を読むべきか読まざるべきか」といったことが問題になるのはこの国だけなのではないか。「大人の前提条件」として必要なものは時代や流行に左右されずに(したがって古色蒼然としたものが)厳然としてあってよくて、その上に、社会と時代の変化や進展があるのだ、というふうには考えられていない。いわゆる保守も革新も、「人間とは何か」ということについて共通理解があるとは考えていない。そもそもそんなことを考えていない。(2010年5月14日読了)