科学力のためにできること Marshall, S.P.他 編 渡辺政隆監訳 野中香方子翻訳 (2008) 近代科学社

科学力のためにできること―科学教育の危機を救ったレオン・レーダーマン
科学は社会の支えがあって進むことが出来る。過去五十年間にアメリカが蓄積した知識の大半は、プロジェクトや大学、研究者、企業あるいは個人に対する政府の援助によって実を結んでいる。インターネットも政府の資金提供を基に設計され、爆発的な拡がりをみせた。同様に通信・気象衛星公的資金によって開発され、打ち上げられている。また、バイオテクノロジーの進歩で糖尿病を治療するヒトインスリンや、赤血球の生成を促し貧血を改善するエリトロポエチンが容易に入手できるようになった。こうした恩恵に与れるようになったのはつい最近のことだが、実は政府が二十年から三十年前に資金を提供した研究がその直接的、間接的な基盤となっている。これらの研究を支える資金の直接のスポンサーが国、州、市、地域、あるいは産業界のいずれであっても、元はというと日夜働いて社会を動かしている一人ひとりの収入による。つまり、高校教師、弁護士、医師、建築家、看護助手、タクシー運転手、パイロット、炭鉱労働者、野球選手、国語教授、ゴミ収集人、音楽家、美容師、皿洗い、交通巡査といった人々の労働の対価である。(科学リテラシー・キャンペーン すべての人への科学 p-26)
当たり前のことだが、日常の仕事のなかで忘れられがちな事実だろう。これは我々の世代では自分で気づかねばならないことと(暗黙の了解で)されていて、表だって教育された記憶はないから、人によってその理解には温度差があるだろう。いまだに学界では「金を取ってくる」ことだけに気を取られる風潮が強いだろうし、「私は金をもらってケンキュウする人、人々を「教育」するのは誰か他の人の仕事」とまだ多くの人が思っているだろう。「事業仕分け」で彼らが突きつけられたのは、そもそも取ってこれるお金が「そこにある」のは、そうやって放置してきた市井の人々の理解があってのことである、ということであるはずだ。「教育」をかじってみて思い知るのは、「自分が学ぶこと」「研究すること」に比べて、「人を教育できるようになること」「人が学ぶ場を作り上げること」は、"mouse year"の現代からすれば永遠と思われるほどに時間がかかる、ということである。個人の気づきと工夫と使命感だけで乗り越えるには荷が重いが、この国の学界はごく最近まで、例外的な一部を除いて組織的にそれを評価したり、積極的に教師を育てたりしてはこなかったのだと思う。国家の財政赤字と同じように、そのツケは我々がこれから支払わねばならない、ということなのだろう。(2010年1月26日読了)