大学の反省 猪木武徳 (2009) NTT出版

大学の反省 (日本の〈現代〉11)
日本の大学院の場合、最初の数年は一般的に広く学ぶというスタイルを取らない、基礎訓練が薄い、社会科学では原典重視をしない傾向が強い。また歴史や哲学も、通史を書いたり、哲学史を若い人にレクチャーしたり、そして随所で古典を読むというような授業が、大学からなくなって久しい。その一つの理由は、それを担当できる先生がいなくなってきたのである。日本の大学における教養の授業の衰退は、それを担当できる先生がいなくなったことに最大の原因があるのだ。(第4章 産業社会における人文学 p-133)
ゆとり教育を受けてきた「ゆとられ」世代の学生たちは、「自分はアホだから」と自嘲気味に言うことがある。「いや、みんなアホだからいいんだよ」と言うと誤解して、「そりゃぁ先生に比べたらアホですよぉ」と口を尖らせる。しかし、私の念頭にあるのは、「自分もまた『アホ』なのかもしれない」という忸怩たる思いである。大学の教養部は私が入学してすぐに廃止された。「パンキョー」は制度疲労を起こしており、それに何の意味があるのか、本来何を目的としていたのか、もはや誰も分かっていないようであった。数百人が詰めかける教室での文化人類学、葉の形がどうたらこうたらという植物の進化学、ずいぶん点数がよかったことだけが記憶にある精神医学…。そんなものの代わりに早くから専門分野の内容を学ばせようと考えたのは、当時の大学人である。彼らにそうした「専門教育」を受け、教える立場になって分かったのは、パンキョーにせよ専門教育にせよ、「基礎訓練を授ける」ということが彼らの頭の中で極めて希薄であったらしいことである。「教養」を必要としているのはいったい誰なのか。(2009年10月17日読了)