公共性 齋藤純一(2000)岩波書店

公共性 (思考のフロンティア)
アーレントはレッシングの次の言葉でその講演を結んでいる。「各人をして彼が真理と見なすものを語らしめよ、そして真理そのものは神に委ねよ」。共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている。この空間は「人びとの言説の尽くしがたい豊かさ」が享受される場所であり、単数の真理が人びとの上に君臨する空間ではない。公共性は真理ではなく意見の空間なのである。(II 公共性の再定義 p-49)
いわゆる「文系」な人たちの議論を聞いていてどうも腑に落ちないのは、彼らにとっては「(一見)その場において理屈が通っていること」、「相手を論破できること」が重要で、その主張がより一般的な立場から見て真に妥当かどうか、ということにはあまり関心がないように見えることだった。この文章を読んでようやく、あの人たちにとっては「真理かどうか」ではなく、そのコミュニティの中で「主張を交わした」ということがその正当性を担保するんだな、と、目から鱗が落ちた次第。まぁ、ここで言われていることとは少し違うかも知れないが。「哲学学者」ではない「哲学者」として、本当に何かを考えようとしている、という印象を受けた本。しかし、英語で書かないと哲学の進歩には貢献しないだろう。こういう本は英訳して出版されるのだろうか。
(2009年7月読了)

春宵十話 岡 潔(2006)光文社文庫(初版本は1963)

春宵十話 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)
文化だって、外国で獲得したものをコピーするのがすなわち文化だと思っている。だからコピーをふやすのが文化を高めることだというわけで、大学ばかりやたらにふえることになる。日本の大学はヨーロッパ全土の大学を加えたよりも多いというが、いったいどうするつもりだろう。形式的悪平等教育が早晩役に立たなくなるのを知っているのだろうか。
西洋文明というのは、国に与えられた人たちの天分をフルに使わなければ、その国はとうてい食っていけない、そんな猛烈な競争で成立っている。ちゃんと教育をやれば立派な花を咲かせるという種子はきわめて少ないのだが、その少ない種子を国が選んで、使える天分はみな使い切っている。フランスも西独も、おそらくアングロサクソンも、みなそうやって激しい生存競争を生き抜いている。そしてここでは少数の高いレベルが非常にものをいうのである。(義務教育私話 p-150)
先の「日本の科学者」に紹介されていたので。しかし、40年前ということを差し引いても、相当デタラメな人である(w。最近の教育で日本人に動物性が出てきたとか、それは脳の中の…、みたいな議論はかなり言いたい放題だ。しかし、確かに戦前の日本人を見慣れた目には「だんだんおかしくなってきた」と思えたのだろう。そうした教育に染まっていない人間の曇りない眼には、上のようなことはもう40年も前にお見通しなのだ。問題は、もうこのような「とんでもないお爺ちゃん」が、我々の社会にはいないことである。
(2009年7月21日読了)